会津三十三観音のはじまり
名君が築いた会津の三十三観音。
弘安寺銅造十一面観音(会津美里町)

弘安寺銅造十一面観音(会津美里町)

三十三の姿に身を変えて衆生(しゅじょう)を救うといわれる観音信仰から、平安時代に始まったとされる三十三観音巡り。本家西国三十三観音(さいごくさんじゅうさんかんのん)の成立以後、坂東三十三観音(ばんどうさんじゅうさんかんのん)など全国各地にさまざまな三十三観音がつくられた。
会津の三十三観音巡りは、会津藩祖保科正之(ほしなまさゆき)により始まった。寛政20年(1643)、会津に入封(にゅうほう)した保科正之は、3代将軍徳川家光の異母弟として生まれ、家光と4代将軍家綱を支え江戸幕府の基礎を築いた名君として知られる。保科正之が入封した当時は、徳川幕府の成立により治安や経済も安定し、参勤交代のための街道の整備も進んだため、全国的に伊勢参りや熊野参詣(くまのさんけい)、西国三十三観音巡りなどが盛んであった。これは遠く離れた会津の領民の間でも同じで、片道ひと月、往復二月以上かかる大旅行に多くの人が出かけていた。この様子をみた殿様は、巡礼のために多額の費用が領外に流れることを案じて巡礼を禁止した。しかし巡礼は、観音様のご利益を願う民衆の信仰に基づくものであり、また諸国を観光する娯楽の側面もあったことから、単純に押さえつけることはできない。そこで代わりに会津三十三観音を定めたのである。領民の不満を募らせずに、資金、労働力の流出を防ぐ、名君の采配であった。

左下り観音堂(会津美里町)

左下り観音堂(会津美里町)

会津藩の領内には徳一の時代からの由緒ある仏寺がいたるところにあったこと、また、古代の霊場巡り以来の観音巡りが盛んな土地柄であったことから、老男女をはじめとした多くの領民たちによって、とくに農村部の女性たちによって盛んに三十三観音巡りが行われるようになった。こうして家を出て羽を伸ばすことの少ない彼女たちは、日頃の悩みを相談したり、温泉につかったりと、仲間とともに親睦と娯楽を兼ねた数日間の巡礼を楽しんだ。さらに保科正之が、街道や宿駅を本格的に整備したことにより、会津領内だけでなく近隣の藩からも巡礼に訪れる人で賑わった。

大内宿(下郷町)

大内宿(下郷町)

会津五街道の一つ下野街道(しもつけかいどう)の大内宿(おおうちじゅく)では、蕎麦好きの正之が前任地から連れてきた職人によって会津に広められた高遠蕎麦(たかとおそば)や、ご飯を丸めて串にさし、地元ではじゅうねんと呼ばれるエゴマの味噌をぬって炭火で香ばしく焼いた素朴な郷土食しんごろうが、今も訪れる人の舌をうならせている。
殿様のアイディアにより身近になった観音霊場「会津三十三観音」は観音信仰と娯楽が結びつく形で領民たちに広く受け入れられた。

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